恭弥さんの日記

徒然なるままに好きなことを綴っていく

私と私の愛をはかるものさし。

私が学生の頃に聞いた話が衝撃的でいまだに忘れられない。私がその話を聞いたのは高校生の頃だ。その衝撃的な話を聞かせてくれた彼女の顔をここ何年も見ていないし、連絡も取っていないが恐らく元気に生きているだろう。訃報を含めて、連絡がないのはいいことだ。元気な証拠。それをよく行くお店のママに酒の肴程度の話として話したら「しんっじられない!そんな男居るの?別れて正解よぉ!」と言われた。

彼女は私が当時付き合っていた恋人の友人で、そこそこ話す程度の友人。性格は私と真逆で、セミロングの髪に可愛らしいウェーブが印象的だった。あと笑った時の八重歯が好きだった。そんな彼女には恋人がいて、社会人だったか大学生だったかは忘れたけれど、身長が高くてやせ型、顔も優しそうな感じの方だったと記憶している。時々ちょっと嬉しそうに笑いながら「今から車で迎えに来てもらってデートなの」と言っていたのがなんだかよかった。幸せな空気はいい。こっちまで幸せになれるから。でもその日は違った。

私はその日、母親に急いで連絡しなければならなかったのに携帯(そのころはスマホが普及し始めたばかりの頃で、まだ大多数がガラケーだった)の充電が切れて、どうしようもなく絶望していた。どうしようかと思いながらバス停を目指して歩いていると、空地のような広い駐車場で彼女とその恋人がなにかしら深刻そうな顔と距離感で話し込んでいる。その駐車場の先にあるのがお目当てのバス停。私は邪魔にならないようそうっと通り過ぎようとしたが、彼女のほうが私が通り過ぎるのより早く反応してきた。

恭弥ちゃん!駆け寄ってきた彼女に笑いかける。思ったよりうまくいかなかったらしくて、心配された。どうしたの、元気ないね。話聞くよ。ぎゅっと手を繋がれたらもう駄目だった。泣くかと思った。事情を話すと、スッとiPhoneを差し出される。使いなよ、と。今思うとなんてことない事情だ。ただテスト期間にインフルで休んで、再試を受けていたら母との約束の時間に間に合いそうにない、というだけ。それだけのことなのに、私にはまるで地獄の苦しみだったのだ。だからiPhoneを差し出す彼女は、まるで神のように思えた。本当に神様。 

翌日改めてお礼を言いに彼女のいる教室へと行って、彼女に昨日の仔細を聞いた。メールでははぐらかされたから。そこで聞いたのが、本当に衝撃的で私はこの出来事を忘れられなくなった。多分これからも一生忘れないかもしれない。だって、別れを切り出した彼女に、「別れるなら、今までのデート代とプレゼント代返して」だよ?

びっくりした。なんだそれは。そんなの払わなくていいよ!思わずでかい声で言ってしまった。 彼女はそうだよね!請求されても知らんふりすればいいよね!気持ちよく別れてくるわ!とまたその日の放課後に、彼と会う算段を付けていた。結局何にも請求されずに別れることができたので、安心した。女々しくてめんどかった。そう言って笑った彼女の強さよ。羨ましい。

プレゼントというのは恋人や友人、家族に贈りあうものだ。贈りあうのに誕生日や記念日以外だと特に大それた理由はないが、何でもない日にも、何かにつけてみなプレゼントを選び贈りあう。もうこれは楽しい楽しい世間のルールだと思っている。それを返せとはどういう心境か。プレゼントの値段はあなたの愛の値段なのか?愛が覚めたから、それらを返せというのか?

確かに私自身も愛さえあればいいと言いながら、プレゼントの値段だけで気持ちを計っている部分もある。そんなことないと言い切れる人もいるかもしれないが、私はそうではない。人間は時間とお金をかけた分だけ情の湧く生き物だ。科学的に証明されている。それに恋人とはなんていうか、頑張ったプレゼントのやり取りがしたいというか。いいものをあげたい、喜ばせたい、喜んでもらいたい。自分がそうだから、相手にもそうやって行動してほしいというか。ちょっと面倒でわがままな女なんだけれど。

多分それは物そのものの値段×手に届くまでの気持ちや手間という付加価値で物の価値が決まると私が思っているからだ。だから彼氏が私のために選んでくれたプレゼントというだけで、それは世界中の金塊を集めても譲れない物になる。もう極論を言えば、そう思って行動してくれるなら、別にどうだっていい色つきのリップとかでも私はシンデレラのように素敵なお姫様になれると思う。

誕生日のプレゼントに、明らかに趣味ではない手作りのプレゼントを渡されて悲しくなって、でも好きな気持ちがあるからどうしようもない、と言っていた友人がいた。そのプレゼントを見たけれど、確かに彼女の趣味ではない。どちらかというと彼の自分本位なプレゼントという感じだ。方向性としては、プレゼントは自作の歌ですとか言ってギター持ち込んで歌を歌うのと同じ感じ。要は自己満。でもその彼は全く悪くないと思う。彼は彼女が喜ぶと思ってそうしたのだから。もちろん、彼女だって悪くない。結果として彼女は悲しくなってしまったけれど、それは彼女の中だけの基準で彼を試して勝手に判断して勝手に悲しくなった、ただそれだけの事。すり合わせがうまくいかなかっただけ。でもその後2人は結局ギクシャクしてしまい、別れてしまった。

私は彼女を慰めていたけれど、頭のどこかでは女は自分にかけてもらった時間とお金、男はセックスで愛情を計るのが男女関係の真理だと思っていた。最悪な友人だ。プレゼントの値段で愛を計ろうだなんてとても傲慢だし、計算高い金目当ての女みたい。でも目に見えない、わからない、感じるしかない愛の重さや大きさを、何で計ればいいというのだろう。言葉や態度も有用だけれど、それだって100%ではない。私は別にそれがすべてではないとわかっているが、それでも、女は自分にかけてもらった時間とお金、男はセックスで愛情を計ると思っていた。最近はそれだけではないなと思い始めているけれど、それは今の恋人と付き合いだして知ったことでもある。

過去の私は良い彼女でいるために、相手に尽くしていた。普通の彼女としての幸福を得るために、プレゼントを選んだり優しくしたり思いやったり慈しんだりしていて、それはただただ自分のためでもあった。相手を思っているように見せかけて、自分が普通の人間であることを確認して安心する。なんと歪んだ承認欲求なのだろう。プレゼントの値段や何が欲しいかなんて、自分の口で、相手に伝えればいいということだ。相手が喜んでくれればいいな。そう考えられれば、もうどこでだって幸福でいられるような気がする。

愛情をいくら疑っても、それは私が決められることではない。尽くしたから愛されるわけでもない。愛情がどこにもないのという前に、いつでも大切にしなければならないのは男とか女とかでもなく、今あなたや私の目の前にいる人のことだ。