恭弥さんの日記

徒然なるままに好きなことを綴っていく

性差別的表現について。

 最近なんだか広告やドラマや法律面でも、女性の描かれ方や扱われ方を巡って炎上するような場面を度々見かけるようになった。数年前には献血ポスター、ほんのちょっと前だと新聞広告が性的で不適切だとして大炎上していたし、とあるストッキングは不買運動まで起こっていた。最近ではトランス関連のニュースが話題になっているように見受けられる。近年は価値観がアップデートされて、SNSやフラワーデモのように堂々と発言できる場所があるからなのかもしれない。

 確かに新聞広告に関しては新社会人を元気づけるということで広告掲載したという事実や意図が、もう無理という感じはする。普通に気持ち悪い。要因は女子高生のでかいおっぱいではない。新社会人を元気づけるというのが、性差別を含む表現だったからだ。女性の肉体が年齢問わず人々の注目を集める題材として扱われ、しかもそれが性差別を含む表現であったことが無理だった。苦痛すぎる。しかも掲載されたのが新聞広告って最早狂気だ。子供も見るかもしれない公共の場で、性的な表現は弁えて欲しい。しかし現実は悲しきかな。表現の自由と擁護する声もよく目にした。あほか。

 なにも私は性的な表現に反対しているのではない。私は普通にえっろい小説は読む。それに私は趣味で万年小説を書き、タイミングが合えばそれらの作品を文学賞に作品を出している人間だ。だから表現の自由というものは大切にしているつもり。しかし勿論エロ表現と性差別を含む表現は別物である。そして表現の自由と性差別を含む表現は、別のところで論じられるべきだと思う。性差別は問題なのだ。エロくないから性消費ではないと言っている人たちはきっと「性的=消費する側の自分がエロい」と感じるかどうかってだけの話だと私は考えていて、これはもう性教育の失敗としか思えない。というか性差別を含む表現というのはほんとにただの差別で、人権の軽視だと思う。多分これが最近よく聞く、フェミニズムとかいう思想なのかな。でも私はフェミニズムに詳しくないので、ちょっと聞いてみた。最近流行りのAI君に。

 ChatGPT曰く「フェミニズムは、男女平等を求める社会運動や思想です。狭義の意味には、女性の社会的・政治的・経済的な権利を拡大し、女性の人権や社会的地位を向上させることを目指しています。フェミニストたちは男女の権利や機会に不平等があることを指摘し、その解消に向けた取り組みをしています。また、性差による差別や女性に対する暴力、セクシャルハラスメントなどにも取り組んでいます。フェミニズムは、19世紀にはじまった運動であり、現在も世界中で続いています」という事らしい。つまりフェミニズムにおけるエロ批判=基本的に人間、特に女性が差別的に扱われているかどうかが論点になるということだろう。

 フェミニズムの起源は18世紀末のフランスに遡るらしく、1790年には「女性の市民権の承認について」で女性に参政権を与えるべきであるとの主張もある。それにしても恐ろしく歴史が長い運動だ。現代では抑圧や偏見、不平等を被る当事者が声を上げて、デモなどを行っている状況かなと思う。なのにどうして女性は頻繁に性差別な表現に晒され、実際に被害に遭い苦しむのか。声を上げ続けるだけではだめなのだろうか。忘れたくないのは当事者じゃなくても共感してくれる人はいるし、自分は気にならないという当事者もいるということ。

 この社会では女性は鑑賞され、評価される存在だ。特にその肉体は男性から性的に見られ、序列をつけられている。女性だけの街が欲しいと定期的に思うくらいには不快だ。更に大変不快なことに性差別的な表現はそこかしこにたくさんあって、それは本当に日本のいたるところで溢れている。例えば意味なく露出させたり胸や尻を強調する広告。世に溢れてるし被害者もいるのに、大して罰せられることのない盗撮やのぞきに性暴力。他にも女性が侮辱や侵害と感じるポーズを戸惑いや恥じらいの表情で、見る側に女性を性的に利用できそうだと感じさせるようなイラスト。こういうものが主に性差別的な表現に当たると思う。なぜかというとこれらは女性が自立性や活動性が低く、受け身であるという理解を生みやすい表現だからだ。でもたとえば自分の意志で水着を着た女の子が楽しそうに笑っていれば、何の変哲もないイラストにもなる。ここはやっぱり難しいところだ。

 最近思うにこれらは家父長制の弊害だと思う。社会構造の中で家父長制を維持するために女性のイメージを築き上げられ、それは現代でも続いている。社会的、文化的に女性とはこういうものだと広く共有されている特徴を兼ね備えることで、受け手が分かりやすいようにつくられている。ケア要因とかっていうとわかりやすいかもしれない。レイプが無罪になるとか医大入試で女子受験生だけが落とされるとか、新聞で巨乳の女子高生の漫画が掲載されるとか、目に見えてわかりやすい女性差別ではないかもしれない。でも私たち女性の隣にはいつも横たわっていて、見ないようにしていてもいつかは突き当たる問題だ。例えば就活。例えば結婚。例えば育児。これらは性的ではないが、性差別的なものが含まれている。どんな体形や髪形や服装でいるべきか。どれだけでも家事をし、そして子供を産むべきで、なりふり構わず育児をする。女性はこうあるべきだという社会、文化的な規範が表象には反映されている。そして日常生活で実際に女性を抑圧しているのだ。たとえば育児をするのはお母さんというイメージを強く打ち出す広告。もうそれ自体が抑圧だ。なぜなら女性にとって育児は単に子どもの世話ではないから。今でも出産を機に仕事を辞める女性は多い。それはキャリアをあきらめ経済力を失って貧困に陥るリスクが高まるといった、個人の人生や生存にかかわる事柄にも繋がる。女性が置かれた社会状況をどれだけ想像できるか。それが性差別的な表現に気づけるかどうかの境目になると思う。

 そういえば宇崎ちゃんの献血ポスターについては「オタクにも献血に協力いただきたい。そのためにオタクの喜びそうなイラストを使った」という理由があって、それでオタクも叩くのは表現の自由の侵害だと擁護している人も多かった。でもストッキングは?新聞は?両方とも広告やポスターとしてはもちろんアウトだ。だから私はもうアツギは不買だし、きっとこの先の人生でこの新聞社の新聞も読まない。だってこんなの表現の自由ではない。

 というかそもそもどうしてこのイラストなの?巨乳や透けたタイツを通じて表現したいのは何だったの?こういう広告を表現の自由だと擁護するのはどうして?表現の程度や是非でなく、どうして女性の肉体が人々の注目を集める題材として扱われ続けているのか。まぁこれを突き詰めると結局は「男は女性の肉体がとにかく大好きなので、女性の身体を合法的に眺めて楽しみたい」ということなんだと思う。身も蓋もない話だけど。だって現にそこら中に女性の水着やセミヌードやらのグラビアが並んでいるのがいい証拠だ。男は女性の肉体が大好きだし、女性の肉体の写真やデフォルメした女性の記号を衆目集めやモノを売るために利用しているという現実しかない。

 いくら性が怖くても、表現の自由大義名分にしてはいけない。普通にそれは弱者の意識のすり替えでしかない。セックスから逃れるために性的消費に走っていくのだと思うけど、それならせめて消費するなりにその現実に対して自覚的であるべきだ。そのうえでこの先、女性の肉体について男や社会がどう向き合っていくべきかを考えていかないといけない。そうでないとあまりにも不誠実だ。人目を惹く題材として、女性の体を使いつづけているこの社会のあり方や、合法的に女性の肉体を眺めて楽しみたいという欲求は性差別だ。これは繰り返し言わなければならないと思う。だって日本の性教育は失敗しているから。正直何が性差別なのかなんて白黒つけてはっきりと論じられないので、個別に判断していくしかないと思う。企業や自治体の中で検証しようという姿勢があれば、きっと性差別的な表現は多分出てこなくなると思う。でも現状は末端の女性や女性の肉体消費に対して疑問や不快感を持つ人たちが嫌だなと思っても、決定権を持つ層が気付かなければ止められない。だから不快に思う人々がいるという事実から目を背けてはいけない。そして表現の自由という価値が守ろうとしているものを今一度考えなければいけない。

 最近ではディズニーでも新しい女性や性的少数者の主人公を創作して人気を集めている。今までは男性が女性を評価していたけど、これからは女性も男性を評価していく時代になる。評価する側に回るのは、女性の自分が主体となるための一つの手段になっているのかもしれないね。これからはいろいろな意見を言いやすい空気、反映される仕組みがあればいいなと思うし、そこから新しい男女平等の形への可能性を探っていけたらいい。