恭弥さんの日記

徒然なるままに好きなことを綴っていく

死は絶対的な救済である

 

今年に入って芸能人の自殺が続いている。ついこの間、竹内結子さんの自殺が報じられた。

なんだか去年あたりから、自殺のニュースをよく見かけている気がする。私の中で衝撃だったのはク・ハラちゃんとコ・スジョンかな。続いて今年5月には木村花ちゃん、7月には三浦春馬さん、9月に芦名星さん、そこからあまり日を空けず藤木孝さん。個人的に好きな人達ばかりがいなくなっていった。ワイドショーは賑わい、自殺に続く自殺。そしてまた自殺と嬉々としてそればかりが報道された。うんざりする。にぎやかで躁病的なやかましさの中で、したり顔をしたコメンテイターたちが「心の闇が~」だなんて曖昧で耳障りのいい言葉を使って、私たちに妙な安心感を与えているような錯覚に陥った。

自殺はそんな単純なものでもない。そもそも、日本では男女合わせて15歳から39歳までは死因TOPに自殺がいる。40歳以降の死因にも、自殺は上位のランクインとなっている。おそらく癌よりも多い。これに関して細かいことは厚生労働省が年度ごとに人口動態統計を公表しているので、詳しくはそちらをどうぞ。

www.mhlw.go.jp

 

自殺の専門家と称される人々曰く、今年相次いでいる自殺はCOVID-19蔓延による影響による外出自粛と新しい生活様式せいらしい。テレビの奥で口々に意見を述べているが、そんなものはくそくらえ。COVID-19が終わったとて自殺は止まらない。というかCOVID-19と自殺を関連付けるものがあまりない、が正しいのかもしれない。そもそもCOVID-19の影響だと言うのなら今まで15歳から39歳の死因TOPは自殺ではなかったはずだし、というか今年だけがどの世代の年代も同じように自殺者が増加して死因TOPとかになるはずだと思う。

あ~あ。自殺者は年々減少しているとかなんとか聞くけど、しかし若者がこんなに自殺したがる国なんてそうそうないだろうな。やんなっちゃう。そして死ねた人がうらやましい。とても。私は自殺した人をいつも羨望の目で見ている。大変に羨ましい。

私の中には死にたいと殺したいが同居している。恋人にそんな悲しいこと言わないで~と言われ抱きしめられながら、それでも私は希死念慮の渦に飲まれ続けている。突然浮かぶ強迫観念にも似たこの自身と他人への殺意(死にたい、は自分への明確な殺意だと私は思っています。殺したいはもちろん殺意です。)は、何年も消えにないままに、日々の生活にかき消され押し流されてここまで来てしまった。

学生時代から自傷に自殺企図にといろんなことをした。あの頃よりはマシになったが、それでも私は今すぐにでも死にたい。道を歩いていたら車に轢かれてぐちゃぐちゃになるとか。階段降りてたら転げ落ちていくとか。高いところに登れば、足元から崩壊していくとか。とにかく日常の中で死ぬ妄想をする。

学生時代はそれこそなんでもした。手首を切った。吐いて拒食症にもなった。睡眠障害だったり気分障害にも悩まされて、オーバードーズもした。道の真ん中に飛び出してみたり首を絞めたり。でもどれもこれもうまくいかなかったし、飛び降りようとしたときは友人に見つかって怒られた。でも手首を切ってるときは生きてる気がした。吐いてるときも。オーバードーズしてるときは飛びすぎて幸福だった。飛び降りる寸前は嬉しくてしょうがなかった。泣いてるときの私と大違いだ。泣いているときはとてつもなくしんどくてどうにかなってしまいそうになる。

最近はうれし涙と睡眠のやさしさを知ったが、それでもまだ足りない。中途半端なまま、何にもなれないで、ただ日々を虚ろに過ごしている。ほんとうの意味で生きている私はどこなのだろう。

多分だけど、一度でも死にたいと思ったことがある人間はその瞬間から一生希死念慮に纏わり憑かれるのだ。もうこれは妄執と言ってもいいと思う。例え平気な顔をしても忘れたふりをしていてもずっとずっと残っていて、死にたいが静かに体を蝕んでいく。「死にたい」は私にいつでも優しくて、そのくせ真綿で首を絞めながら寄り添っている。

死にたいと言って泣きじゃくった時、それを本当の意味で理解できる人はいない。私には私の、他人には他人の悲しみがある。だから今、何食わぬ顔で生きていくしかないのだ。死ねないのならば。

ただ私には死がいつでも優しく寄り添っている。死は私への優しくて絶対的な救済である。