恭弥さんの日記

徒然なるままに好きなことを綴っていく

生きている限りバッドエンドはない

 

 若手芸人徳永は熱海の花火大会で、ある男と出会う。男はお笑いコンビあほんだらの神谷と名乗った。徳永は神谷の伝記を書くという条件で弟子になり、神谷は徳永に笑いの哲学を伝授しようとするのだった。

 スパークスは深夜番組に出演したり、お笑い雑誌で小さく取り上げられるようになる。その頃神谷は大阪から東京に拠点を移していた。ある日徳永は神谷が多額の借金を抱えていることを知り、自身と遊ぶことで神谷の借金を増やさないように神谷と疎遠になっていく。やがてスパークスが出演していた漫才番組が終了すると同時期に、スパークスはコンビ解散が決定した。

 スパークスのラスト漫才では思ってる事と逆の事を言うと先に宣言しておけば、感傷に浸らずに思いきり本音をぶつけられるというネタを披露した。観客達の拍手を浴びて舞台は幕を閉じる。その後徳永も芸人を辞め、不動産屋に就職したのだった。

 仕事を終えて一人で飲んでいた徳永に、一年前に失踪した神谷から連絡があった。徳永が神谷の元へ急いで向かうとそこにはFカップになった神谷がおり、「徳永だけには、笑って欲しかった」と神谷は泣いた。そんな神谷を徳永は熱海へ温泉旅行に誘い、旅館でお笑い大会のポスターを見つける。神谷はネタ作りを始め、「とんでもない漫才を思いついた」と全裸のまま何度も飛び跳ねたのだった。

 

 火花/又吉直樹 第153回芥川龍之介賞受賞作品だ。正直なところ、私の火花に関する感想はずっと「つまらない」「面白くない」だった。文章も平坦で淡々としていて、引き込まれるところもない。けど多分火花が面白くないのは、私が芸人じゃないからだ。私の世界にはなじみがないから面白くない。だから話題になった瞬間に購入したものを何年もかけて読了にまでもっていったのも、ただの惰性だ。そこにあるから読まなくちゃ、的な。そう思って惰性で読み進めていたら、スパークスのラスト漫才で一気に引き込まれた。これは油断した。でも面白かったのはそこだけで、漫才シーンが終わったらまた最後のページまでまったく面白くなくなってしまった。それどころか読みながらずっとこれはほんとうに芥川賞受賞作品?純文学?という疑問まで湧き上がってきて、全く楽しめなかった。

 火花は売れない芸人徳永と先輩芸人神谷さんとの交流を描いている。笑いとはなんなのかを考え、しかし結局スパークスは解散して徳永は漫才師とは別の道に進んでいく。笑いとは何か、人間とは何か。これがテーマだろうと感じた。確かにテーマだけ見れば火花は純文学でもいいと思うし、そもそも芥川賞はあまりストーリー展開の面白さとかは問わない。純文学の賞だから。しかしながらこれが芥川賞をとるのはどうかと思う。やっぱり納得はいかないな。でもこれは芸人の又吉だから書けたものだと思う。私にはわかり得ない芸人としての苦悩や葛藤、焦燥感を細かく表していて、徳永は又吉本人がモデルなのかと思うくらいだった。

 とにかく火花は終始自分に関係ないどころか共感すらもできない話が続いて、ただぼんやりと「ふうん、へえ。そうなのね」と読み進めていると、スパークスの最後の漫才で空気が急に変わって一気に火花の中に引き込まれる。初めは徳永が舞台上で相方の山下を「天才」「ツッコミが上手い」と褒めるが、そのうち「文句ばっかり言って全然ついてきてくれなかった」「ほんま楽しくなかった」と叫びだす。それはやがていつも来てくれた観客への感謝になり、最後は自分の芸人人生や才能がない悲しみをあらんかぎりに叫ぶのだ。そのうちに会場は笑い声よりもすすり泣く声の方が大きくなっていく。神谷さんも劇場の一番後ろの方で泣いていた。そして山下が最後に「お客さんに全然感謝してません!」と叫んだあと「お前最低やな」と笑いで締めくくる形で漫才が終わる。徳永から普段は気恥ずかしくて面と向かってまっすぐとは言えないような本音を全力で心から叫ばれ、気づいたらいつの間にか観客になっていた。スパークスに思い入れなんて何もない。そもそも火花は終始徳永と神谷さんの話が中心に回っていて、漫才の話なんてほとんど出てこない。相方の山下なんてまるでモブのような扱いで、私が覚えている限りでは時々名前が出てくるくらいで作中でなにかしていた覚えがあまりない。情報も彼は徳永の相方だったとか彼女と同棲していて、妊娠が発覚して籍をいれたとかそれくらい。だから余計に引き込まれたと言える。かなり感動して、正直少し泣きそうだった。最後の漫才でこんなことされて、もし私がスパークス推しなら家に帰ってお気持ち表明する。多分帰路につきながらTwitterであらんかぎりに叫びまわり、家についたら真っ先にこのブログにお気持ち表明していたと思う。それくらいぐっと来た。今までつまらなかったからこそ、最後の漫才が引き立ったのかもしれない。本当にこの流れは圧巻だった。

 神谷さんは徳永が尊敬してやまない人物だ。常識に囚われないその笑いに魅了され、徳永は神谷さんの弟子にまでなってしまう。伝記を読んだことも書いたこともないのに、神谷さんの伝記を書くと二つ返事をしてしまう。その様は心酔という言葉が似合うのだろうか。徳永とは正反対だから魅了されたのかもしれない。そんな神谷さんは自分が面白いと思ったものを全力でただ我武者羅にやってしまえる、自分が面白いと思ったことを突き詰めていける人だ。だから火花の冒頭の漫才ではオネエ言葉で「天国に行くか地獄に行くか分かる。地獄、地獄、地獄」と観客を一人一人指さす奇想天外な漫才を披露する。神谷さんというかお笑いコンビあほんだらの漫才は作中でこれしか詳しく言及がないので、一般受けはしないような芸風なのかもしないと推測するしかない。でも神谷さんは作中通してずっと売れてないし、なんなら女性のヒモをしていたりする。そう考えると芸風がニッチな層向けで大衆受けしないのだと思う。徳永は神谷さんに憧れながらも、常識に囚われ大衆受けする漫才をしていた。でもそのおかげか一時期少しだけ売れて、ちょっといいマンションに住んだりしていた。

 しかし神谷さんは売れていなくとも徳永を可愛がり、結構な頻度で飲みに連れて行ったり自宅に泊めたりとよく面倒を見てくれる。これはすべて先輩である神谷さんのおごりだ。よくテレビで売れた芸人が下積み時代に先輩に飲みに連れて行ったもらったと美談のようにしているけど、これは伝統的な芸人の習わしなのかもしれない。芸人仕草的な。それで借金が1000万に膨らんで最終的に自己破産なんてしてるんだから、神谷さんは本気で本物のあほんだら。芸名通り。そうやってあほんだらだった神谷さんはなぜか後半で急に変わってしまった。神谷さんはそれまでは尖っていて、ただひたすら笑いを追求していた。赤ん坊にも全力で笑わせに行くと言っていたような人だ。でも後半は大衆受けを考えた。一般的な笑いについて考えてしまったから面白くなくなって、Fカップに豊胸するなんて奇想天外な行動に出てしまう。そして徳永に笑ってほしかったと後悔するのだ。

 神谷さんはきっと寂しかったのだと思う。自分が笑いを追求していくにつれ、どんどん孤独になっていくから。でもきっと何かを突き詰めていくと、人はどんどん孤独になる。だから神谷は東京に出てきた最初、居候をしていた女性真樹さんに依存していたのだ。その依存先であった真樹さんが離れた後は自棄になって、でもしばらくしたらまた別の女性に依存して居候をしていた。そして最後は徳永に依存する。もうそのころには正常な判断もできなくなっていたのかもしれない。それで失踪してなぜか豊胸手術でFカップにしたし、居酒屋で「徳永だけには、笑って欲しかった」と神谷は泣いてしまったのだ。神谷は自分が笑いを追求して孤独になる現実を直視できなかったのかもしれない。

 そうは言いつつも神谷さんは基本的には笑いにステータスを全振りしている。徳永の格好を真似た時もただ格好いいと思ったからだったし、笑い以外に関しては子供のように無邪気だ。それ故に神谷さんは熱海の温泉で「とんでもない漫才を思いついた」というだけで、自分がFカップであることも忘れて飛び跳ね美しい形の胸を揺らす。きっとFカップで客が漫才に集中できないことも事務所をクビになったことも「とんでもない漫才を思いついた」だけで、この時の神谷さんはすべて忘れて去ってしまっているに違いない。以前徳永に語って見せた「生きている限りバッドエンドはない」「芸人に引退はない」という自らの言葉を、神谷は自身の身一つでこの瞬間に証明したのかもしれないと思った。