恭弥さんの日記

徒然なるままに好きなことを綴っていく

マイノリティーと呼ばれる友人を持つ私の話。

私の友人は所謂マイノリティーというカテゴライズをされる、らしい。私はこの呼び方があまり好きではない。なぜならば答えは簡単で、異性愛がベースになっているからだ。異性愛であることが前提の世の中だから、それは当たり前かもしれないけれど。なぜこれが当たり前なの?なんて突き詰めていけば最終的には種の保存とか本能とか、そういう動物的な話になってしまうからここではその話は一先ず置いておこうと思う。とにかく、私の友人は同性を好きになって、悩んで苦しんで、そうしてその恋を適度に諦めながら生きている。いつだってそれは苦しくて悲しい。でも友人は笑って言うのだ。
「あの子はノンケだから」

私は1度、この友人のことを母親に相談したことがある。母親はこの子の顔と名前は知っている。直接会わせたことは無いが写真を見せたことがあるし、よく遊ぶので、私の口から名前が頻繁に出ていた。初めのうちは母親も、異性だけれど、気の合ういい友人がいると認識していたはずだ。そうして彼と友人として過ごすようになって1年が経とうとした頃に、付き合わないのか、と母親に問われた。母親にはこの子が、同性の男の子に恋をしているとは一言も伝えたことは無かったから、仕方が無いのかもしれない。私が彼のことを、仲が良いを通り越して、恋愛という意味で好きなんだと思っていたようだ。もちろん母親は相手の子も私が好きで一緒に居るのだと、そう思っていたようだった。私としては全くそんな感情はなく、相手も私のことは[男の趣味]が合ういい友人として認識していた。だから、母親に付き合わないのか、と問われて、少し驚いた。そうか、もしかしなくても、恋人のいない私達2人は世間からはそういうふうに見えている、母親の一言は私達2人の友情を友情としては捉えていないのかと認識させた。そうか。なんとも言えない感情と共に、私はほうと腑抜けた。そうか。怪訝な顔をする母親には付き合わないよと一言返して、その上で、相談した。彼のことはもうどうしようもないが、せめてせめて、と。彼が恋をしている相手については、名前も顔も何もかも伏せて、曖昧に彼が恋をしているんだと伝えた。彼の恋する人はどういうような人で、だけれど相手は彼には興味のない人だ、と。彼は適度になにもかもを諦めて苦しんで傷つきながら、恋をしていると。母親の答えは一言だった。
「気持ち悪い。お前の友達はオトコオンナか」
ものすごく絶望した。オトコオンナとはなんだ、娘の友人に向けて言っていい言葉では無いだろう。私はもちろん抗議し、激しく怒った。怒りしかなかった。そりゃあそうだ。私の母親は私に、世界にはいろんな愛があるよ、と教えたのだ。友愛、親愛、異性愛、同性愛、対物愛。いろんな愛があると私に教えたのだ。それと同時に、心と身体が一致せずに苦しむ人がいることを。それを苦に一大決心をして、日本ではない国で手術してしまう人がいることを。他にも障碍(この呼称も好きではない)を持つ人がいることを。私がとても恵まれていて幸せで、だから尚更、人にやさしく丁寧に生きなくてはいけないことを、教えたのだ。私はそのおかげで、同性愛にもなにもかも、道徳倫理に反していなければ特に偏見はない。そういうふうに娘を育てた母親が、娘の友人にオトコオンナというのだ。私はもう泣きたくなった。そうして泣いて怒って怒鳴り散らす私に、母親は冷静にそれでもオトコオンナだと言い放った。別に彼は女の子になりたい訳では無い。男として、人として、彼は恋をしたのだ。あんまりではないか。けれど、冷静に考えてみて分かった。娘を心配する1人の親として、世間体を気にするこの姿勢、母親は正しいのだ。きっと。

私はこの件以来、母親に彼の話をしなくなった。自衛のためだ。もう傷つきたくなかった。母親は思い出したように、オトコオンナは元気かと聞いて来るようになった。その度に、彼はおかまでもなんでもない、男として一人の人を愛していると言い続けた。大事な友人を貶す母親が許せなかった。母親としても母親なりの正義があって、私にも私なりの正義がある。そういう話なのはわかっていても譲れなかった。その私の大切な友人である彼は、今はもうノンケの彼に恋をしていない。同様に同性が恋愛対象のグループに属して、それなりに恋人や友人を作って、幸せそうにしている。それだけが私の救いだ。
新しい令和の世では、こんなに悲しい思いをすることがないように。そういう人が減るように。私達のような関係性のふたりが、友人と正しく認識される世の中であるように。彼らのように、異性愛でなくても、許される世の中であるように。それだけを祈る。