恭弥さんの日記

徒然なるままに好きなことを綴っていく

心の穴と、それを見下ろす私。

私は、とても朧気だが大人というか20歳になったら勝手に死ぬものと思っていて、結局死ねなくて、今を生きてる。
あんなに時計を眺めて、今か今かと心臓の止まる時を待った私は、日付が変わった瞬間にも生きていて、拍子抜けしたと同時に酷く落胆した。そして泣いた。
そのくせいつまでたっても子供で、どうせ誰も私に関心なんかないんだといじけている。とても卑屈な生き物だ。
目先の欲にばかりに捕らわれてしまうし、本当にやるべきことはいつも後回しにしてしまう。
毎日飽きもせず自分のことが一番大事で、浅ましいばかりだと日々そう思います。えぇはい。
だから毎日に絶対的な幸福は無い。もう常に死にたい。
でも一時的に見つけた楽しみのために、なんとか心の安寧を図っている状態だ。
精神状態も思考もころころと変わり、揺れる。とにかく揺れる。不安定すぎる。
だって調子が良ければ「私はとても恵まれている」「とても愛されている」などと言い出すし、調子が悪ければ「誰にも愛されていない。私は孤独だ」などと嘆いては勝手に絶望している。
とにかく醜い承認欲求の塊だ。
それなら愛してください、と一言だけでも言えればいいのだけれど、自分に自信が無さすぎて、そんな勇気はない。
嗚呼、なんてちっぽけなのだろう。
なんでこんなことをひたすら、延々と、どうしようもないのに考えてしまうのか。
なんで自分で自分を愛することができないのだろう。
どうして自分を信じられないのだろう。
悲しくて悲しくて仕方がない。
そういう時に私は、幼い頃の私を幻覚に見る。

私の心には大きな空洞がある。これは幼少期からあるものだ。まったく塞がらなくて、どんどんどんどん大きくなった心の傷だ。
傷ついたらとっても痛いから、穴のあいた心が傷つかないように、必死で自分を守りながら過ごした。

弱さを見せたら傷つく。だから私は弱さを見せるのが苦手だ。
強いふりや鈍感なふり、バカなふり、賢いふりをして、ときには偽りの弱さを見せてまで穴のあいた心を守る。
どんどん心の感度が悪くなって、だから涙腺も強い。人前で泣いたのも、もう随分と昔だ。
そんな幼少期からの癖は、今も心の穴と一緒に残っている。

そうして誰も味方がいないと思ったときに、幼き日のわたしの幻影が私の前に現れるのだ。
ボロボロの私の前に現れる泣きじゃくる幼い子供は、時にとぼとぼと歩いていたり、蹲っていたりする。
友達の前で1人我慢して、不格好な笑みを浮かべて。「大丈夫」の一言を呪詛にして精一杯立ち続けていた。
そうして傷ついた心が、今もずっと、悲鳴を上げ続けている。たまらなく、痛い。

だから私はわたしをゆっくりと抱きしめて、

「怖かったね。寂しかったね。辛いね。痛いね。でも大丈夫だよ。よく頑張ったね」

そう言って、小さな小さな体を抱きしめるのだ。ありがとうと言って笑うまで。
そこに他の誰の言葉もいらない。

小さな小さなわたしは、20歳になって静かに愚図りながら泣くまで、わたしの人生は絶望していた。
今は絶望感が随分と薄れた。かわりに、私の人生すべてどん底だとは思っている。
でも幼き日のわたしはそんな私に抱きしめられて、私と一緒に泣いてくれるのだ。
いつもありがとう。
そして幼いわたしを見送った大人の私はまた、死にたいと思いながらも、時々幸せな日々を始めていく。
今日も明日も明後日も、生きていく。