恭弥さんの日記

徒然なるままに好きなことを綴っていく

許すことは正義なのか、許せないことは悪なのか。

大前提として私には許せない人がいます。
だから私には解る。許すというのは簡単じゃない。
傷付けられても尚、相手を受け入れるのには痛みを覚悟しなければならない。
心の痛みは見えないのだ。愛が見えないのと同じ様に。
許せないからこそ、の視点でものを言います。

「許す」という行為を履き違えたり間違えている人が多いと思う。
許すという行為イコール傷つけられた人間が傷つけた相手を許せばそれで終わるとか、相手を許せないのは許せない人が悪いとか、そんなのは完全な間違いだ。
迷信や妄想に値すると言ってもいい。

許す行為は許す側からは始められない。つまり1人では出来ないということだ。
許すということは2人必要で、許す側と許される側の人間が居る。
そして許すための第1段階は改心してもらうこと。改心しないと、どうにもならないのだ。

だから1人で「許し」が達成できると思っている人は図々しいし、酷いと思う。
なぜなら真実を曲げて改心もせずに悪い事を続けている人を、許しても良いと言っているのだから。
「あなたはそのままでいい」と許可を与えて、被害を広げているわけだけど、それはよほど自分を偉いと思っているように見えて、私には図々しく感じる。

これをセクハラに置き換えてみたらどうだろう。
例えば会社。上司に「ホテルに行こうよ」などと言われてセクハラをされたとする。
自分はたまたまその会社に入り、自分のいくつも偉い立場で、倍の年齢の上司に、ホテルに行かないとどうなるかわかってるかと言われる。
もしかしたらホテルに行かないとこの先、会社での立場が悪くなるぞと脅されるかもしれない。
そうして被害に遭ったとして「自分は被害に遭ったけれど、上司なりの理由や立場があってのことなので、許さなければならない」と許したとする。
セクハラ上司を許したと友人や親、会社の同僚、恋人に話せるだろうか。
話したとして同意は得られないし、尊敬もされない。
もしかしたら愚かだと蔑まれたりする可能性だってある。
だってセクハラを「許すべきだ」なんてそんなこと言う人はなかなかいないからだ。
普通は「許すべきではない」と言うはずだろう。
もっと過激なことを言うと「上司を辞めさせろ」とか「訴えるべきだ」と言われるのではないか。

許すという行為はまず罪を犯した人が「事実を認め反省し、謝罪と罪を償ってから」発生するものだ。
罪を犯した人が償いまで終えていないならまったく許される資格を得ていないし、資格を得る前に罪を許せば、罪を犯していいですよと間違った許可を与えてしまうことになる。
これは自分だけでなく、他のまだ被害に遭っていない誰かの事も「害していいですよ」と言ったに等しくなる。
悪い事を許容すれば間接的に自分も罪に加担するという事になるので、やっぱり「悪い事は悪い」と言うべきだし、償いを終えるまで許さない事がみんなの為になるはずだ。

償わなければ、許されない。これは当然の事だと思う。
罪を犯した人が正当な償いを終えたら、その時に初めて許せるかどうか考えてあげれば良いと思う。
考えた結果「許せない」と思ったら、償いが不十分あるいは心の傷がそれだけ重症だという事なので、十分に償われるかあるいは心の傷が癒えるまで許さなくていいと思う。
それが「社会の普通」であるべきだと思う。

でも、相手が罪を認めない場合はどうすればいいの?
その場合は、先ほど書いていたように許しは「事実を認め反省し、謝罪と罪を償ってから」発生するものなので、許される資格が無いということになる。
そもそも罪を理解できない人が害を及ぼしてくるのだから許すべきではないし、自分を守らなければならないと思う。
セクハラに不快感を抱き、上手に共生出来ないのと同じ事だと思う。
だって被害を受け続ければ、体調は悪化するかもしれないし最悪は無理矢理ホテルに連れ込まれてしまうかもしれない。
女性なら妊娠するかもしれない。もし上司が女性だった場合でも、妊娠したとなれば大事だ。
そのくせセクハラした側は、妊娠の責任ももちろんセクハラについても罪を認めず、責任を取らずに逃げるかもしれないのだ。
そんな奴とは一緒にいられない。
もちろん許せないだろうし、きっと心に傷を負ってしまうだろう。

それでも、許すべきだなんて声をかけるのだろうか。
1番苦しんでいるのは当人なのに。

嗚呼。許すことは正義か、許せないことが悪なのか。