恭弥さんの日記

徒然なるままに好きなことを綴っていく

好きな洋服を着たいじゃん? 

 胸元が開いてるニットにタイトスカートで歩いてたら、見知らぬ男性にエロいなと大声でキャットコールをされた。無視しても真横でエロい可愛いと言いながら、このあとどう?と下品なジェスチャーまでついてきた。こんな服装だから仕方ないかって思いかけたけど、どう考えてもそんな掛け声は失礼だしきもいしナンパとしても酷いだろ!!!と思い直した。仕方無い訳がない。普通にあり得ない。 

 思い返せば高校生の時にも私服姿で街を歩いていたら、有名進学校の制服を着た中学生たちに可愛いだとかエロいだとか囃し立てられたことがある。その時の服装はオーバーサイズのニットにフェミニンなスカート、ショート丈のブーツで露出なんか一切なかった。 

  胸元が開いている服やミニスカだと「エロい」と言われ、極力露出を抑えた服も「見えないからエロい」と言われ、OL制服や学生服も「エロい」と言われる。なんなら着物や浴衣ですら「エロい」らしい。やっとエロいと言われない服を着たら「女捨てたババア」と言われる国で「隙のある格好をする女も悪い」と言う人に、女は何を着たら責められないのか教えて欲しい。 

 とは言え何を着たらいいか教えてほしいなんて言っても、こういう人間は好きな服着れば?としか言わなない。なぜならだいたい「エロい」などと失礼極まりないコメントしてくる人間というのは、ほとんど服のデザインなんかには興味がない。なんなら普段は全然服に関するコメントなんかしてこないだろう。そのくせに露出が多い服やタイトな服を着た途端に急にニヤニヤして話しかけてくるのだ。こういう人種のすごいきもいのが人の伴侶や女友達にですら「エロいね」とそういう感想を持てるところね。まぁ思ってるだけならいいけど、伝えてくるところね。そこが特にきもい。なんでそれ言うの?女性を一方的に性対象として品定めするのはいいし、エロいと思うのは個人の自由だけど、それをジロジロ見たり本人または他の人に言うのはほんとにどうかと思う。特に本人に言うってやばいよ?努力ってできない?黙っていられないの?社会性ない感じ?もうほんとにほんとにほんとに、これがきもくなければなんといえばいいのだろうか。 

 そもそも大抵の女の子って、「その服かわいいね」って言われるのは嬉しいけど「その服エロいね」って言われると萎えるのではないだろうか。それがたとえ恋人でも。私の恋人はいまいちピンと来てないようだったんだけど、女性はこれきっとわかる人多いはず。やっぱ恋人でも「エロいね」はなんかストレートすぎて、たとえ誉め言葉であったとしても言われても嬉しくはない。色っぽいね、とかセクシーだね。せめてこれくらいに濁して欲しい。 

 エロい/セクシー/色っぽい この3つの違いはなにかって思うかもしれないけど、私個人の感覚として「エロい」は一方的に女性を性対象として品定めし、侮辱されているような気がして不快というだけ。あとは何を着ても痴漢被害かババア扱いを受ける女性蔑視の価値観が蔓延していることをまざまざと見せつけられる気もする。セクシーや色っぽいは状況と関係性によるけど、客観的な褒め言葉と取れる場合もあるからまだ許せる。「エロい」よりはマシってだけだけど。でも正直かわいい/かっこいいの二択でいいんじゃないかと思うけどね。 

 まあセクハラに限らず、ていうか男女限らず、日本人は人の着る服にお節介しすぎだと思う。ミニスカとか胸元の開いたような、ちょっと露出の高い服に関しては特に。あ、夏場のノンスリーブとかもそう。これに関しては男性に限らず女性にも何かしら言われる。涼しそうだねってそれくらいならいいけど、そんなに腕を出してどうこうとか。本当にうるさい。後はタイトだね太って見えるから辞めた方がいいとかとか丈がどうこう臍がどうこう、色がどうこう。もう老若男女問わずうるさい。 

 特に腹立つのが「私はふりふりしたものが似合わないから、ふりふりが羨ましい」とかいうの。これが一番うるさい。ふりふりが着たいなら取り入れ方とか取り入れどころもあるし、一緒に買い物行く?っていうと断られるし。それならふりふり羨ましいとか言うな。目に映ったもの全部を口に出さないと気が済まないの?もうなんかさ、相手の容姿や服装に関して思ったことを相手がどう感じるかも想像せずそのまんま口に出さないでほしい。 

 けれど自分でハロウィンでも何でもないのに、ピエロみたいな奇抜な格好をしておいて「見られた!キモい!」とか言うのはちょっと違うかなって思います。私だって今日飲みに行こ!って誘った友人が居酒屋にピエロの格好して来て「めっちゃ見られてる、怖い😢」とか言い出したらさすがに一言くらいは言うと思うし。そりゃ見るよ、お前の格好変だもんって。 

 ああそうだったそうだった。あまりにも思い出しイライラしてしまって脱線したけど、どんな格好をしていても下品なキャットコールや許可なく体に触るだとか盗撮して良い理由、下心を抱いて良い理由にはならないんだよって言いたかったんだった。あと被害者に「そんな服着てるからだろ」とか言うのは愚かしいと思います。それは普通に犯罪だし、やったやつが悪い。以上。 

昭和感溢れる会社にいた時の話。

以前いた会社のことを思い出したので、とりあえずまた吐き出してみた。

 

lerchetrillert.hatenablog.com

 

以前いたこの会社にはものすごく仕事のできる営業のお姉様がいらっしゃった。このお姉様は他人の3倍くらいは仕事してる人だ。同じ営業の、私のブラザーですら「あの人ほんとすごいよ」とか「滅茶苦茶に忙しい人」というくらいだ。でも何故か少し軽んじられているというか舐められているというか・・・はっきり言うと馬鹿にされている。理由は簡単で、身内ではないから。

あの会社はすべての部署がほとんど身内で構成されていて、社長や社員の家族、親族・先輩・後輩・友人・知人etc...まぁ要するにコネ入社ばかりなのだ。常務なんかは取締常務の義理の弟さんらしい。でも今年はそうして引っ張てくる人間がいなかったらしく、新卒の子1人と中途の私1人だけの採用と相成ったそうです、ちゃんちゃん。 

まぁそういうわけで、私も新卒の子もお姉様と同じで内心というか内心からかなりはみ出してめちゃくちゃ馬鹿にされてる。馬鹿にされてるだけならまだしも何が気に食わないのか、3人してずっと行動監視されていた。じゃないと言わなくないか?30分以上もお手洗いに籠る庶務のお局様がいるのに、それをしり目に10分ほどお手洗いにいた私に「何してたの?」なんて。普通にお手洗いだわ。あとはちょっと化粧直したりストレッチがてら体伸ばしたりしてるだけだわ。

あと染髪も厳しく糾弾された。毎日毎日ネチネチいつになったら髪切るの?染め直すのって。怖かった。でも社内には茶髪や金髪に染めてる先輩もいたし、就業規則には禁止事項として染髪の項目がなかった。ちゃんと確認してから赤のインナーカラー入れたのに「なんで聞かなかったの?」って注意された。先輩に聞いたら、先輩はお咎めなしだったらしいのにね。おお怖い。

庶務のお局様には「お茶くみと電話受付、書類整理があなたの仕事だからちゃんとしてほしい」とも言われていた。時代錯誤というか昭和時代過ぎる。専務のおじいちゃんは自分のお茶は自分で入れて、なんならカップまで片付けるのに。どうしてそれ以外の人間はみんな何もしないの。お局様曰く、若い女が電話取ったりお茶出ししないだけで周りのみんなが不愉快になるそうだ。みんなが気持ちよく仕事をするためにやってほしいと言われたが、はてさてその仕事は庶務のお局様のお仕事では?と思わなくもない。私は営業事務なんだが?どっちかといえばシゴデキお姉様のサポートが仕事です。

あと男子トイレの掃除をさせられてたの思い出したんだけど、男子トイレがあまりにも臭いし汚すぎてえずいたし無理すぎた。それで一回掃除したふりして水だけ撒いて放置してて、次の週に見たら先週よりも汚いの。男性陣誰も掃除してないの。なんなら便器に大がこびりついてるの。あれはホントに怖かった。 

まぁそんなことは置いておいて。確かに当時の私はお姉様やブラザーにおんぶにだっこ状態で、引っ付いて歩いては引継ぎを少しずつ行う日々だった。だから本当に仕事をしていないと言えばしていない。あの時の私にできる精いっぱいは自社のサイト作りと広報活動、お姉様の書類仕事をできる範囲で少し肩代わりするくらい。上司や庶務のお局様に仕事してないと言われても、それは仕方ないと飲み込んだ。自社サイトなんてお金出せば作れると言われたときはさすがに泣くかと思ったけど。じゃあそうしてよ、って。何しんどい思いして毎日HTML触ってんのさ、バカみたい。しかし不愉快か。結構きついな。もうモチベは最低限まで落ちている。さよならって感じ。 

お姉様は私と新卒の子をとても心配してくれていて、ただ新卒の子は気のいいおっちゃん連中に文字通り面倒見てもらっていたので、そこは安心だと言っていたけれど。ただ先述の空気感に堪えられなくて、進言しても変化のない状況に耐えられなくなった若い子や中途採用で入ってきた有能な人間は採用してもどんどん辞めていくらしいので、身内以外誰も残らない。そこだけが問題なんですよねとも言っていた。お姉様めっちゃ忙しい人なのに、、、気配り心遣いの鬼だわ。 

でもこの新卒の子はあとで副業がバレて(就業規則には副業禁止なんて文言はなかったけど)クビになっていた。あらら。

社内はとりあえず居心地が悪くて、内輪ノリや同調圧力村八分もさもありなんといったような空気感がかなり漂っていて、他人に常に干渉し続けなければならないような空気が出ていた。正直、気持ち悪い。みんな悪い人ではないのはわかるが、とにかくしんどい。しかし内輪ノリはでもどこにでもあるもので、それ自体は存在していてもいいとは思っている。そこは何とも思わないし、否定はしない。私が嫌なのは当たり前のようにその空気で接して、私がその空気にノれなかったり事情が分からないものを消化できなくて戸惑っているのに白けることだ。 

これは実際にまだ覚えているのだが、事情が分からないのに私の入社前に起こった出来事を「あの時の次長ウケたよな!恭弥、あれまたやってほしいよなwww」と同調を求めてきて、「え?次長なにかされたんですか?見たかったです~」と無難にかわしたのを「え?もしかしてわからん?なんで?あれウケたさね!なんでわからんの?(とにかく白ける)」みたいなの。とにかくこういうのが多かった。頻発しまくり。ええ~わっかんね~。
しかも出来事自体をちゃんと聞いてみると、私が入社する前のものなので私が知りうるものではなかった。それなのに場はものすごく白ける(なんで?)のだ。そこからはもう若干の村八分状態。それでいきなり村八分にしてきたと思ったら、調子のいい時だけ「みんな仲間!いてくれてありがとう!」なんて言って肩組んだりしてきてほしくない。もうとにかく白けるなら偽善的に手を差し伸べてこないでほしいというのが本当のところ。それならそれでもう内輪のみなさんだけで盛り上がって、私に関してはビジネスライクな関係でいてほしかった。これはわがままだろうか。 

私は今新しい環境に自分の身を置いてみて、今現在がほどよく線引きのうまい人の多く集まった場所なのかを思い知った。つかず離れず波のように他人に干渉し、ほどよく身を引き、私にはそれがとても心地いいと思える。 って言っても業務形態が気づいたら変わっているし、給与形態がなんの周知もなく月給制から月収制になったうえに、台風直撃で避難警報と暴風警報が鳴り響き、川が氾濫しそうな中でも出勤を命じられているのでここともそのうちおさらばですけど。

私はまたリクルートエージェントサービスに再登録して、エージェントからの支援を受けている。早く次が決まるといいな。

性差別的表現について。

 最近なんだか広告やドラマや法律面でも、女性の描かれ方や扱われ方を巡って炎上するような場面を度々見かけるようになった。数年前には献血ポスター、ほんのちょっと前だと新聞広告が性的で不適切だとして大炎上していたし、とあるストッキングは不買運動まで起こっていた。最近ではトランス関連のニュースが話題になっているように見受けられる。近年は価値観がアップデートされて、SNSやフラワーデモのように堂々と発言できる場所があるからなのかもしれない。

 確かに新聞広告に関しては新社会人を元気づけるということで広告掲載したという事実や意図が、もう無理という感じはする。普通に気持ち悪い。要因は女子高生のでかいおっぱいではない。新社会人を元気づけるというのが、性差別を含む表現だったからだ。女性の肉体が年齢問わず人々の注目を集める題材として扱われ、しかもそれが性差別を含む表現であったことが無理だった。苦痛すぎる。しかも掲載されたのが新聞広告って最早狂気だ。子供も見るかもしれない公共の場で、性的な表現は弁えて欲しい。しかし現実は悲しきかな。表現の自由と擁護する声もよく目にした。あほか。

 なにも私は性的な表現に反対しているのではない。私は普通にえっろい小説は読む。それに私は趣味で万年小説を書き、タイミングが合えばそれらの作品を文学賞に作品を出している人間だ。だから表現の自由というものは大切にしているつもり。しかし勿論エロ表現と性差別を含む表現は別物である。そして表現の自由と性差別を含む表現は、別のところで論じられるべきだと思う。性差別は問題なのだ。エロくないから性消費ではないと言っている人たちはきっと「性的=消費する側の自分がエロい」と感じるかどうかってだけの話だと私は考えていて、これはもう性教育の失敗としか思えない。というか性差別を含む表現というのはほんとにただの差別で、人権の軽視だと思う。多分これが最近よく聞く、フェミニズムとかいう思想なのかな。でも私はフェミニズムに詳しくないので、ちょっと聞いてみた。最近流行りのAI君に。

 ChatGPT曰く「フェミニズムは、男女平等を求める社会運動や思想です。狭義の意味には、女性の社会的・政治的・経済的な権利を拡大し、女性の人権や社会的地位を向上させることを目指しています。フェミニストたちは男女の権利や機会に不平等があることを指摘し、その解消に向けた取り組みをしています。また、性差による差別や女性に対する暴力、セクシャルハラスメントなどにも取り組んでいます。フェミニズムは、19世紀にはじまった運動であり、現在も世界中で続いています」という事らしい。つまりフェミニズムにおけるエロ批判=基本的に人間、特に女性が差別的に扱われているかどうかが論点になるということだろう。

 フェミニズムの起源は18世紀末のフランスに遡るらしく、1790年には「女性の市民権の承認について」で女性に参政権を与えるべきであるとの主張もある。それにしても恐ろしく歴史が長い運動だ。現代では抑圧や偏見、不平等を被る当事者が声を上げて、デモなどを行っている状況かなと思う。なのにどうして女性は頻繁に性差別な表現に晒され、実際に被害に遭い苦しむのか。声を上げ続けるだけではだめなのだろうか。忘れたくないのは当事者じゃなくても共感してくれる人はいるし、自分は気にならないという当事者もいるということ。

 この社会では女性は鑑賞され、評価される存在だ。特にその肉体は男性から性的に見られ、序列をつけられている。女性だけの街が欲しいと定期的に思うくらいには不快だ。更に大変不快なことに性差別的な表現はそこかしこにたくさんあって、それは本当に日本のいたるところで溢れている。例えば意味なく露出させたり胸や尻を強調する広告。世に溢れてるし被害者もいるのに、大して罰せられることのない盗撮やのぞきに性暴力。他にも女性が侮辱や侵害と感じるポーズを戸惑いや恥じらいの表情で、見る側に女性を性的に利用できそうだと感じさせるようなイラスト。こういうものが主に性差別的な表現に当たると思う。なぜかというとこれらは女性が自立性や活動性が低く、受け身であるという理解を生みやすい表現だからだ。でもたとえば自分の意志で水着を着た女の子が楽しそうに笑っていれば、何の変哲もないイラストにもなる。ここはやっぱり難しいところだ。

 最近思うにこれらは家父長制の弊害だと思う。社会構造の中で家父長制を維持するために女性のイメージを築き上げられ、それは現代でも続いている。社会的、文化的に女性とはこういうものだと広く共有されている特徴を兼ね備えることで、受け手が分かりやすいようにつくられている。ケア要因とかっていうとわかりやすいかもしれない。レイプが無罪になるとか医大入試で女子受験生だけが落とされるとか、新聞で巨乳の女子高生の漫画が掲載されるとか、目に見えてわかりやすい女性差別ではないかもしれない。でも私たち女性の隣にはいつも横たわっていて、見ないようにしていてもいつかは突き当たる問題だ。例えば就活。例えば結婚。例えば育児。これらは性的ではないが、性差別的なものが含まれている。どんな体形や髪形や服装でいるべきか。どれだけでも家事をし、そして子供を産むべきで、なりふり構わず育児をする。女性はこうあるべきだという社会、文化的な規範が表象には反映されている。そして日常生活で実際に女性を抑圧しているのだ。たとえば育児をするのはお母さんというイメージを強く打ち出す広告。もうそれ自体が抑圧だ。なぜなら女性にとって育児は単に子どもの世話ではないから。今でも出産を機に仕事を辞める女性は多い。それはキャリアをあきらめ経済力を失って貧困に陥るリスクが高まるといった、個人の人生や生存にかかわる事柄にも繋がる。女性が置かれた社会状況をどれだけ想像できるか。それが性差別的な表現に気づけるかどうかの境目になると思う。

 そういえば宇崎ちゃんの献血ポスターについては「オタクにも献血に協力いただきたい。そのためにオタクの喜びそうなイラストを使った」という理由があって、それでオタクも叩くのは表現の自由の侵害だと擁護している人も多かった。でもストッキングは?新聞は?両方とも広告やポスターとしてはもちろんアウトだ。だから私はもうアツギは不買だし、きっとこの先の人生でこの新聞社の新聞も読まない。だってこんなの表現の自由ではない。

 というかそもそもどうしてこのイラストなの?巨乳や透けたタイツを通じて表現したいのは何だったの?こういう広告を表現の自由だと擁護するのはどうして?表現の程度や是非でなく、どうして女性の肉体が人々の注目を集める題材として扱われ続けているのか。まぁこれを突き詰めると結局は「男は女性の肉体がとにかく大好きなので、女性の身体を合法的に眺めて楽しみたい」ということなんだと思う。身も蓋もない話だけど。だって現にそこら中に女性の水着やセミヌードやらのグラビアが並んでいるのがいい証拠だ。男は女性の肉体が大好きだし、女性の肉体の写真やデフォルメした女性の記号を衆目集めやモノを売るために利用しているという現実しかない。

 いくら性が怖くても、表現の自由大義名分にしてはいけない。普通にそれは弱者の意識のすり替えでしかない。セックスから逃れるために性的消費に走っていくのだと思うけど、それならせめて消費するなりにその現実に対して自覚的であるべきだ。そのうえでこの先、女性の肉体について男や社会がどう向き合っていくべきかを考えていかないといけない。そうでないとあまりにも不誠実だ。人目を惹く題材として、女性の体を使いつづけているこの社会のあり方や、合法的に女性の肉体を眺めて楽しみたいという欲求は性差別だ。これは繰り返し言わなければならないと思う。だって日本の性教育は失敗しているから。正直何が性差別なのかなんて白黒つけてはっきりと論じられないので、個別に判断していくしかないと思う。企業や自治体の中で検証しようという姿勢があれば、きっと性差別的な表現は多分出てこなくなると思う。でも現状は末端の女性や女性の肉体消費に対して疑問や不快感を持つ人たちが嫌だなと思っても、決定権を持つ層が気付かなければ止められない。だから不快に思う人々がいるという事実から目を背けてはいけない。そして表現の自由という価値が守ろうとしているものを今一度考えなければいけない。

 最近ではディズニーでも新しい女性や性的少数者の主人公を創作して人気を集めている。今までは男性が女性を評価していたけど、これからは女性も男性を評価していく時代になる。評価する側に回るのは、女性の自分が主体となるための一つの手段になっているのかもしれないね。これからはいろいろな意見を言いやすい空気、反映される仕組みがあればいいなと思うし、そこから新しい男女平等の形への可能性を探っていけたらいい。

尾形百之助を考える④

 尾形と勇作さんって耽美だなと思う。言葉選びとか設定とか。例え腹違いであっても、実の弟を「たらしこんでみせましょう」なんて言って嗤う兄なんている?しかも連れて行くのが遊郭で、弟の視線の先は遊女でなくはだけた兄の胸元ってどういうこと?もうほんと何この兄弟。背徳感すごい。あと作者は兄弟のどちらかが死ぬってシチュエーション好きなのかな。この異母兄弟もだけど、二階堂とか鯉登、菊田さんもだったかな。みんな大切な兄弟を失くして、二度と会えないんだよね。尾形は自分で撃ち殺してしまったし、幻覚を連れ歩いてるからもしかしたらちょっと別の話かもしれないんだけど。

 しかし菊田さんから見ても仲の良かった兄弟なのに、どうして尾形と勇作さんは一緒にいられなかったのだろうか。確かに愛はあったのに。

 思えば尾形と勇作さんはお互い愛はあっても、お互いのことは何も見えていなかった。それは会話が圧倒的に足りなかったからだ。もしかしたら尾形と勇作さんが真正面から向き合って会話したり、兄弟喧嘩ができる仲になれていたら、結末は違っていたのかもしれない。二人はお話ができなかったから、未来永劫分かたれることになったんだよなぁ。でも誰かと真正面からお話できる尾形は、私の中ではちょっと解釈違いだ。尾形は思考が内向的なので。尾形は本当にどこまでも孤高で孤独で、コミュニケーションが下手過ぎる生物だったね。それでも勇作さんは、尾形に精一杯歩み寄ってくれていたのかな。だから最期に尾形は「勇作だけが俺を愛してくれた」と、勇作さんのあれを自分の人生で唯一与えられた愛だと言い切ってしまえたのかな、って。ただこれがわかりやすい絶対的な愛情や信頼を、何ひとつ与えられてこなかったんだという証明にもなってしまっているけど。

 幼少期の尾形はたまたま銃しか選べなかったから祖父の古い銃を選んだけど、少なくともその銃の使い方を教えてくれる祖父と食事を作ってくれる祖母がいた。だから愛がなかったわけでも、見捨てられていたわけでもないんだと思う。見捨てられていたら、全く別の尾形百之助の人生を送っていたかもしれないのだ。もしかしたらとっくに尾形は死んでいた可能性だってある。でも尾形は両親の愛を感じられなかったから、愛自体を感じ取るのも難しいのかな。そうだとしたらなんとも悲しいのだろう。

 ただその後の人生でどう生きようとするかは自分で決められるものではあるから、親からの呪いで雁字搦めになっている尾形と愛されて育ったはずのサイコパス宇佐美、尾形同様父親がろくでなしだったけど自分なりに過去との折り合いをつけている月島軍曹との対比で色々考えさせられるところもある。尾形は愛されたくて終始「その人の代わりにして、自分だけを見て」と試し行為を繰り返して、自らすすんで地獄の底に身を沈めてしまったのかもしれないなって思うと苦しいな。

 そして尾形は愛されて育ちたかったって思ってるけど、同じ父を持つ勇作さんが愛されて育ったのかはわからないのも怖い話だなと思う。作中では勇作さんの視点は存在しないし、勇作さんに関するエピソードはどれも他者視点しかない。つまり勇作さんが愛されて育ったに違いないって言うのは、尾形の妄想でしかないのだ。と言う事は、勇作さんの本当の思惑や真意はわからない。だから尾形が抱いていた劣等感や憎悪が、勇作さんをより眩く見せていた可能性が大きいのではないか。というかそもそも清廉潔白な人間などいる訳がないので、一皮剥けば勇作さんだって他の人と同じで俗物的な部分や醜さがあるだろうと思っている。勇作さんは周囲が思うほど、聖人君子などではないのでは?だって人間だもの。お願い。そうであってくれ。勇作さんって遊郭ではだけた兄の胸元を見る弟なんだ。ちょっとえっちすぎるだろ。お願いだから俗物的な人間であってくれと願う自分がいる。

 しかし本当に勇作さんは愛されて育ったのか、ちょっと気になるところだ。花沢家は地位も高く、由緒正しい家柄だ。勇作さんは公的にそのたった一人の跡継ぎで、まさしく「軍人血統」ということになる。愛があるかどうかはともかくとして、相当に厳しく躾けられて育っているのではないだろうか。そもそも勇作さん自身が花沢幸次郎という「優秀な血統」の後継スペアとして考えられていたとしてもおかしくない。
 その証拠に勇作さんは幸次郎に死亡率の高い聯隊旗手になり、偶像となることを望まれている。そして勇作さん自身もそれが自分の為すべきことだと思っていた。ここには勇作さんの意志もなにもない。ただ幼少期からの教育の賜物だ。更に母は息子大事さからか、幸次郎に極秘で息子の意志を無視して花嫁を見つけようとお見合いをセッティングしてしまう。挙句に代役が立てられ、それを勇作さん本人は知らないのだ。自我を認められてないというか、勇作さんへの周囲からの抑圧がかなり強い印象を受ける。だから勇作さんは尾形を「兄様」と慕って積極的だったのではないだろうか。

 勇作さんは本当の自分を、尾形にだけは知ってほしかったのかも知れない。他者に振舞う偶像ではない花沢勇作を見て欲しくて、それで尾形が愛されていたと言えるほど歩み寄って支えあっていきたいとか思っていても変ではないな。そうなると、勇作さんが尾形に父上からの言いつけの話をしたのかも何となくわかるような気がしてきた。勇作さんは尾形からして祝福された子だ。だから無自覚に尾形にとって1番辛い、愛されている証の話をしてしまったのだと思ってた。きっとそうではなくて、自分を見てくれないというか自分を通して父を見る兄様の心に届くのは父の言葉だけかもしれないという、勇作さんの苦渋の決断でした話だったのかなとか。勇作さんにとっても辛い言葉だったのかなと。

 となるといやまあ幸次郎自身も、勇作さんみたいに雁字搦めの「優秀な血統」の後継スペアとしてコマ扱いされてきたのかもしれない可能性はある。血筋は呪いなので。そして勇作さんは両親に板挟みになって、間近で血筋の呪いを見てきたわけだ。そうなるとある意味で尾形と同様閉ざされた家で、尾形と違ってさらに逃げ道がない勇作さんは、ヒロの思惑通りに結婚して自分だけ経済界に逃げようなんて思えるわけがないのかな。高潔というか普通に精神力強すぎると思う。高潔だったな。やっぱり勇作さんはもまともに愛されて育ったわけでもなさそう、というかこれきっと愛されてない。愛されて育ったなんて、尾形の妄想だった。

 尾形もあの閉ざされ母の狂った家では逃げ道はなかったはずだけど、純粋なまま歪んでしまって自分で家をぶち壊して逃げたもんな。それもそれで精神力の強さというか、思考の歪みが苦しくなる。

 似て非なるものだけど幸次郎に縛られていたという意味で言えば、二人とも同じだったのかもしれない。尾形は妾の子と言う呪いを受けていたし、勇作さんも同じように偶像と言う呪いを背負っていた。やっぱり親の存在が与える子供の人格や精神状態への影響は計り知れないものがあるな。やはり幸次郎、誰も幸福にしない、不幸で歪な手段を取ろうとしてトメには誠意尽くそうとしたんだね、辛かったねじゃなくて、お前が2人の女性と2人の息子を地獄に落としたんだわ、って解釈でいいのかもしれない。クソおやじすぎる。

 なのになんで尾形は幸次郎を少しも責めないのだろう。呪われろとか言われたのに。310話まであいつの呪われろがずっと響いてそうで、つらいし幸次郎が憎い。幸次郎は母を愛してなかったって納得しただけで、何も恨まないし文句の1つもない。しかも最後の最後で愛した瞬間があったなんて結論に行き着いてしまってもっと悲しい。尾形がひたすら純粋すぎた。ねぇそれが愛って、ほんとによかったの?男は出すもん出したらそうなんのよって言ってたじゃん。それでよかったの?尾形の欲しかった愛っておっ母に抱き締めてもらうとか撫でてもらうとか誉めてもらうとかそういうの求めてたんでしょ。将校になるのだって、そうなったら喜んでくれるかもって絶対思ってたでしょ。本当によかったの、ねぇ尾形、、、😢

 そういえば尾形って祝福を求める一方で、一度も誰にも赦しを請わなかった。赦されたら立ち止まれるのに。どうして自分が悪いしかないんだろう。きっと尾形は誰にも赦されなかったから、そのまま一生を歩き続けてしまったんだな。もしかしたらどうしたらいいのかわからなくて、赦して欲しいと口にできなかったのかもしれないけど。もし間違いと気づいた後どうしたらいいのかわからなくなってしまったのだとしたら、それはあまりには幼すぎる。そうして「自分は愛されて生まれた人間であったのか」を確かめるために母と弟と父、それから友を殺した尾形百之助の孤独がもう悲しい。

 ゴールデンカムイは全体的に愛がテーマになっている。尾形と勇作さんは兄妹愛だ。そして「与えられ続けた花沢勇作」と「与えられず奪われ続け、奪うことしかできない尾形百之助」の対比でもある。尾形はあまりにも子供の様で本当に幼い。本質的な精神年齢は、もしかしたら母を殺したときで止まっているのかもしれない。そこを何とかいろんなものでコーティングしているからちぐはぐなのだ。そんな姿に尾形の不遇を思う。尾形は与えられることなく育ったが、勇作さんからの愛はたった1つの奇跡のような愛だったのかもしれない。なお愛してくれる勇作だけが、誰も愛してくれる人がいなかった尾形の唯一だった。たとえ間違えた道を選んだのだとしても、愛のかたちはきっと本物だった。

祈りの持つ力を信じますか?

 リー・ルオナンは超常現象を探る動画配信チャンネル喃喃怪ナンナンクワイを、恋人アードンとその弟アーユエンと共に運営していた。地下道に入ると祟られるという迷信を調査するため、3人はアードンの祖父が暮らす山深い村へ向かう。村人は指で印を作り面を伏せて3人を迎え入れた。儀式は親族以外は参加禁止となっているが、ルオナンはアードンの子を妊娠していたため特別に儀式に参加することが許されたのだった。

 儀式は2回行われる。1回目の儀式では村の老婆に言われるがまま、祭壇に祀られた仏母に自分とお腹の子の名前を捧げて呪文を唱えた。老婆は捧げた名前は使えなくなり、頭に思い浮かべることも禁じた。また10年に一度は仏母にお参りに来るよう言うのだった。その晩に村人だけで2度目の儀式が行われる。3人が儀式の様子を撮影しようとしていると、ルオナンは村の少女に祭壇へと案内された。

 祭壇には十数体の石仏像が置かれ、壁には不思議な符号の描かれた掛け軸、天井には2人の赤子やいくつかの手を持つ顔のない仏母が描かれていた。突然石仏が一斉に振り返り、少女が呪文を唱える。そこへ村人が駆けこみ、ルオナン達は部屋に監禁されてしまった。しかし部屋を抜け出し、地下道の入り口を破壊する。アーユエンとアードンが地下道へ潜入するが、アードンは村人たちによって変わり果てた姿で地下道から運び出され、儀式の部屋で焼かれてしまう。アーユエンは「何も聞くな」と叫びながら家の屋根から飛び降り、自殺してしまった。村人達も体が何かに蝕まれている。ルオナンは無我夢中で車を運転し、村から逃げ出したのだった。

 それから6年後、ルオナンは施設に預けていた娘ドゥオドゥオと、ようやく一緒に暮せることになった。ルオナンはドゥオドゥオに一生懸命に話しかけ、コミュニケーションを試みる。ぎこちない母娘の出発だ。新居でルオナンは本当の名前であるチェン・ラートンの書き方を教え、2人で名前を復唱した。この夜から怪奇現象が起こり、ドゥオドゥオは顔のない悪者がいると言い始めるのだった。

 ある日ドゥオドゥオがあの呪文を大きな声で唱え始め、体に異変が起きる。病院で脳障害による下半身不随だと宣告された。ルオナンはビデオカメラに残された仏母の呪いだと信じ再び精神科を受診するが、裁判所から親権はく奪されてしまった。ルオナンは里親だったチーミンと娘ドォウドォウを連れて、6年前に頼った寺院へ共に向かう。しかし同じ道を何度も通りたどりつけない。なんとか寺院へ到着すると、導師はドゥオドゥオのお祓いを始めた。尊師はドゥオドゥオに7日間絶食させるように言うが、ルオナンは3日目にパイナップルを爪の先ほど与えてしまう。ルオナンはドゥオドゥオを寺院へ連れていくが、導師も弟子も亡くなっていたのだった。

 チーミンは村に根づいたチェン一族の過去や経文の解読、破損した動画の修復に奔走し、和尚の動画をルオナンに送る。そして地下道での動画を見て自殺してしまう。修復された動画を観たルオナンはドゥオドゥオを病院に搬送し、自宅でLIVE配信を開始した。ルオナンは6年前に恐ろしいタブーを破ってしまったこと、娘の呪いを解くために符号を覚え祈りの言葉「ホーホッシオンイー シーセンウーマ」を唱えて欲しいと話し、配信を終えた。そして全身に経文を書き、仏母と対峙するため地下道へ向かう。地下道には“死生有命”と書かれた布で顔が隠された仏像があった。ルオナンは配信を再開し、嘘をついていたと告白する。また中国の和尚が仏母と呪文について説明する動画が流れるが、それを聞いていたのは妊婦姿のルオナンだった。ルオナンは信じてない人はこのまま呪文を唱え続けてほしいと言い、自分も目隠しをして呪文を唱え、仏母の顔にかけられた布を外す。地下道には配信を観ていた者たちの悲鳴と、ルオナンが自らの顔を祭壇に叩きつける音が鳴り響いたのだった。

 

 

 2022年公開の台湾映画で監督はケヴィン・コー。原題「咒」

 「呪詛」は配信された途端に話題沸騰、ランキング1位にもなったホラー映画だ。台湾の高雄市で実際に起きた、家族6人がそれぞれ違う神に憑りつかれてうち1人が亡くなった事件をベースに、5年の準備期間を経て制作されたらしい。

 私はなんだか衝撃的過ぎて一回では理解できなかった。あまりにもわからなくて、普通にえ?って言ってしまった。時間をおいて何回か視聴することで、やっとなんとか呑み込めた。ストーリーは簡単だ。6年前に訪れた奇妙な風習の残る小さな村で呪いを受け、自分と娘にかけられた呪いによって次々に起こる怪異に悩まされるというもの。しかしとにかく不気味で、呪いというものが連鎖して自分の周囲を巻き込んでいく様子が描かれている。呪いの連鎖といえばリングや着信アリ呪怨が有名かな。でも臨場感とかリアルさ、気色悪さは呪詛の方が上かもしれない。私的には怖い順で並べると呪怨 >呪詛>リングで呪怨とリングの中間点だ。

 呪詛は2ちゃんとか5ちゃんのような掲示板やYouTube動画にあげられる怖い話、都市伝説を見ているような気持にさせられる。多分ラストで明かされる核心部分が、そういったものを連想させるのだと思う。2ちゃんの「おつかれさま」や「ひとりかくれんぼ」のような実は呪いの儀式だったとか、「コトリバコ」のように呪いを拡散する媒体があるといった話を読んでいる感覚に近い。多分こういったネット上の書き込みとかチェーンメールとかがとてつもなく怖い人には呪詛は本当に怖いと思う。そんな呪詛が生み出しものとは、いったい何だったのか。

 主人公ルオナンはYouTuberだ。そのためか映画の視聴者に向かって「祈りの持つ力を信じますか?人は迷信と思いながらもあらゆる場面や行事で、無病息災や家内安全などを願います」と語り掛けてくる。そして「簡単な実験をしよう」と提案し、画面に突然観覧車のアニメーションが映し出される。「右回りになるように念じて」「次は左回り」とルオナンの指示をするままに念じると、観覧車を自由自在に回せているように見えるのだ。そして「これから起ころうとする結果は、自分自身の意志によって変えることもできる」と彼女は説明する。これで傍観者のつもりだったのに、急に参加者にさせられてしまった。ホラー作品としてはかなり異質だと思う。それに意志の力で世界を変えられるというのは、なんだか怪しい宗教のような感じもする。他にも入ってはいけない地下道や「あの神様のことを知れば知るほど不幸になる」と話す場面は、姿の見えない土着信仰の神が不気味に浮かび上がってくる。更に娘ドゥオドゥオが何もいないはずの天井を指して「天井に悪者がいる、追い出して」と不気味なことを言うのだ。ルオナンが「悪者、出ていきなさい!」と呼びかけるも、娘が「手を繋がないと出て行かないよ」と言い出すので、ルオナンは何もいないはずの空間に手を伸ばさざるを得なくなる。ぞっとする。そしてラストで明かされる真実がとびっきり不気味で気持ち悪い。しかし最後まで見たら納得できる。

 あらすじは綺麗にまとまっているけど、実際の時系列は入り混じってごちゃごちゃだ。しかし不気味さや恐怖は一貫していて、戦うことも抗うこともできない呪いと母と子の人間ドラマとで感情移入してしまう。ルオナンは私たちを最大限惹きつけて、最期に娘の呪いを払うという儀式に映画を見ている観客自身も参加させようとするのだ。そして衝撃のネタ晴らしで、さらに恐怖のどん底に突き落としてくる。しかもこの自撮り撮影の意味を理解させるための映像の繋ぎ方も絶妙にうまい。

 一番最後にドゥオドゥオが「お城が遠い」「バスがない」「お城は泡となって消えた」と笑顔で話しているが、ルオナンの望み通り、ドゥオドゥオは助かったのかな?

尾形百之助を考える③

 尾形百之助は全体的にかなり掘り下げられてとても丁寧だったから、作者に愛されているというか、大事にされてるキャラなんだろうなと個人的には思っている。幼少期の回想があんなに何度も何度も何度も、作中の至るところにあったのは尾形だけだった。作中では様々なキャラに過去の掘り下げや回想が用意されていたけど、それでも尾形のは圧倒的な質量がある。他にも多方面からの尾形への評価等、尾形の人物像についての掘り下げのような場面がいくつもある。そういえば、宇佐美と尾形の掛け合いからして、なんだかんだ尾形のことを真に理解していたのは宇佐美だったな。尾形のこと、これっぽっちも愛してはいなかったけどね。

 尾形と宇佐美は同じようで、全く違う。それは243話上等兵たちで特にはっきりしたと思う。まず尾形と宇佐美の会話の内容はまるでかみ合っていない。殺人に対する解釈は一致しているはずなのに、だ。それどころか互いの話を、ただ相槌だけして聞き流している。そのため自分の言いたい事だけを言っており、互いの理論を補強していたような印象すらあった。真に発言の意味を理解はしていないのではないかと思う。それがさらに顕著に表れていたのが、尾形の「両親からの愛情の有る無しで人間に違いなど生まれない」の問いだったかもしれない。「そのとーり」と宇佐美はにこやかに答えたが、ここではっきりと決定的なズレが生じているからだ。親に愛されなくて歪んだ尾形と、親に愛されて育っているにも関わらずに歪んだ宇佐美では性質が大きく異なる。宇佐美は真実サイコパスだ。尾形は本当に悲しいかな、サイコパスになり切れない。よく鍛えられた普通の男だった。

 恐らくだが、尾形としては会話の意味とか意図は特に大事ではない。だからあの会話は己を補強するための材料を得る、または自信を得るのが目的があったのではないかと思う。だから宇佐美が相槌だけ打って聞き流していてもよかった。だって尾形は誰かに肯定してもらい、己を補強ができればそれでよかった。なぜなら勇作さんの存在に、自己の根幹が揺らぎそうだったから。そのために宇佐美に問いかけている。これは二人が対等だからできたことだろうな。もしかしたらだけど、尾形を理解している対等な誰かであれば、宇佐美でなくともよかったのかもしれない。でも尾形のことを理解しているのも、対等なのも宇佐美しかいない。だから宇佐美に問いかけた。しかし相手が宇佐美だったことで、尾形は永遠に後戻りができなくなってしまったけど。宇佐美はサイコパスなので。

 尾形はたくさんの人を殺しているのに、なぜ他の誰でもなく弟の幻影を見るのだろうか。尾形にとって両親や同じ部隊の戦友、敵を殺すことにはきっとなんの躊躇いも恐れもない。微塵の後悔すらも感じないんだろうと思う。彼らは尾形のことを愛してなかったから、殺しても何とも思わないのかもしれない。だから彼らの幻影は見えない。でも勇作さんは確かに家族として尾形を愛していた。宇佐美と逆で、尾形を理解していたわけではないけど。少なくとも愛されてた実感というのを、勇作さんからは無意識にでも受け取っていたのではないかと思う。だからこそ最後に「勇作だけが俺を愛してくれた」に繋がった。あの最期は尾形を今まで何とか生かしてた、相反する内面外面の建前をどちらも成り立たせる為の自死だったんだろうな。ということは尾形は自分の気持ちに蓋をしているだけで、後悔の念も持ってるし他人に共感もする人間なのだということになる。だから唯一自分を愛していた人間の死だけは乗り越えられず、怨霊とも妄執ともつかない幻影を連れ歩いてしまう羽目になったのだろう。普通にただ敵の弾に当たって戦死したよりも、後悔マシマシだったんだね。殺しちゃったしね。

 尾形と勇作さんを見ていると、勇作さんは兄弟としてほんとに尾形と対等な関係になりたかったのではないかと思う。それは勇作さんが尾形に兄様兄様と纏わりついていた姿に表れている。尾形は軍で山猫の子と噂されていたから、きっと勇作さんが尾形と話す姿は周囲にいい顔をされなかったはずだ。尾形も言っていたように軍の規律を乱す行為なので、もしかしたら誰かに苦言を呈されていたかもしれない。幸次郎から尾形には関わらないよう、言いつけられていた可能性だってある。それでもかまわずに勇作さんは尾形に声を掛け、なんなら壁に押し付けている。尾形が勇作さんを遊郭に連れて行ったときは「兄様から誘っていただけるなんて」と喜んでいたことから、きっと頻繁に尾形を誘い共に過ごす時間を取っているはず。勇作さんはをちゃんと個としての「尾形百之助」を見ていたのではないだろうか。偶像たれと望まれた男の望みが、腹違いの兄と対等になりたいとは可愛いな。対する尾形は勇作さんが「花沢少尉」「勇作殿」として視界に映っている。尾形は真正面から勇作さんの愛が受け取れていなかったので、無意識下で個としての「花沢勇作」と認識していたのかもしれないけど。だとしたら相当拗れている。

 それでいくと宇佐美はちょっと潔くて、異母兄弟と比べるとすごいなと改めて思う。智晴くんにとっての宇佐美は勇作さんにとっての尾形と同じで、個としての「宇佐美時重」という認識だった。でも宇佐美の視界に映っていた智晴くんは、多分本当にただの「偉い人の息子」で、対等とか愛とかそういうのはどうでもいい。それよりも鶴見さんに褒められていたのが腹立たしい、それだけ。それで殺してしまったけど後悔もないし、なんかもうほんとに潔すぎる。もし尾形が宇佐美に勇作さんを殺したって一言でも言っていれば、多分だけど「なんかわかる~てか結局勇作殿殺しちゃったんだ~ウケる~」とでも言いそう。なんか簡単に想像できた。怖い。宇佐美は怖いやつだ。

 人と対等で居続けるって頑張っても為せることじゃないから、尾形も勇作さんも、もちろん智晴くんも宇佐美もみんなちょっとずつだけど、微妙に拗れてて辛い。それ故か、尾形と宇佐美は対等な関係に収まっているのも面白い。別に対等になりたいとか思っていないだろうに。というかお互い「こいつと対等とかどういうこと?」くらいのことは思っていそう。二人とも育ってきた状況や持ち合わせてる劣情が似ているから、図らずも対等になってしまったのだろうか。

 尾形は家族との関係や他人との関わり方、関係性の構築がずいぶんと希薄だと思う。相手に踏み込まないし踏み込ませない。しかも自己完結型の人間。そんな尾形にとって、宇佐美は唯一対等な理解者だったはず。もしかしたら人生で唯一、友人というポジションに収まっていたと言えるかもしれない。清い友とか学友とかではなく、完全に悪友だけど。でもそうなると誰よりも宇佐美が、一番濃い時間を過ごしていた人物かもしれない。なぜそんな宇佐美を、尾形は撃ったのだろう。あの狙撃は尾形の人生で、最も関わりの深かった友を殺したことになるのに。しかも左撃ちの、それも難しい射角から。いくら軍人でも親や親友を殺すとなるときっと動揺すると思うけど、尾形はそれを冷静に完遂した。一切の躊躇もブレもなく撃ち抜いたことで、完遂できるという結論にあの瞬間に至ったともいえるのか。元々素質はあったかもしれない。もしかしたら、それを確信するために宇佐美を撃つ必要があった可能性すらある。だからこそ「お前の死が狙撃手としての俺を完成させた」に繋がるし、尾形にとっては宇佐美の死がとても重要なことだったのだろうな。

 尾形と宇佐美の掛け合いとかじゃれあいを、私は永遠に見ていたかった。おっちょこちょいだし宇佐美に騙されがちな印象あるし、しかも騙されたのにすぐ気づいて怒るとかじゃなくて、しばらく待ってる尾形がめちゃくちゃ良すぎる。カチカチのご飯ができて、でもそれを誰に言うでもなく黙々とつつくのもかわいい。おちょくられてる尾形のエピソードとか無限に知りたい。てか同僚や上司からはそういういじられ方してたのかな。部下にはあんな高圧的なのに。あと勇作さんに規律が乱れますとか言ってるし、なんか兵舎の規律真面目にしっかり守ってそう。そしてその規律を破って近づいてくる勇作さんと、近すぎる勇作から少しでも距離を置きたい様子の尾形百之助ってかわいい。父に愛された異母弟はどんな高潔な人物かと想像していたら、汚い台詞を叫び局部を振り回す男で笑顔がこぼれた尾形百之助も可愛い。でもこれを公式から提供されている現実を改めて考えると、なんかとにかくクレイジーだなって。え?神の子とは?

尾形百之助を考える②

 尾形百之助に狂っている人間だから、延々と彼のことを考えています。私はきっと尾形を形成する要素、家庭環境や境遇すべてをひっくるめて尾形を愛してるんだと思う。支離滅裂で矛盾と破滅の気配を背負いつつも、ニヒルに笑う彼が好きなのだ。とはいえあの態度も性格ももとは自分を守るためとか傷つかないように予防線を張るためだったろうから、もし環境が違ったらならばきっときっと、大層な天然さんになっていたのかもしれないと思う。いやもうすでに天然か。飯盒の穴に気づかずカチカチになったお米を黙々とつついてたり、宇佐美に騙されて一人ぽつねんと訓練場所に立ってたりした男だもんね。あと尾形は気が抜けると蝶々を追いかけることがあるのが、なんかもう本当に幼い。そんな男に「頼めよ『助けてください尾形上等兵殿』と」とか言われても、そりゃあ源次郎も頷かない。というか頷けない。

 そんな尾形が人生で初めて「やっぱり俺ではダメなんだ」と感じたのが、唯一愛してる実の母に対してというのがなんともやるせない。何一つ望んだものは与えられなかったのに、母に対する悪口とか恨みつらみが一個もないところも辛い。尾形は本当にトメさんのことが大事だし、どこまでもだいすきで、きっとずっと「優しくて綺麗なおっかあ」だったんだと思う。尾形はただ愛されたかったし振り向いてほしかったし見てほしくて、きっとそれだけで他には何もいらなかったのかもしれない。尾形は父上にも「母に愛してると示してほしかった」だけで、自分のことは一度も何も求めなかったくらいだし。

 113話あんこう鍋の「少しでも母に対する愛情が残っていれば父上は葬式に来てくれるだろう」「でもあなたは来なかった」「仮にあなたに愛情があれば母を見捨てることはなかったと思います」というの幸次郎への告白が悲痛すぎる。そのあとの宇佐美との会話で尾形は「最後に(幸次郎と)色々話したかったから」と言っていて、尾形は父上が葬式に来てくれたら、それだけで本当に満足だったんだろうと思う。ただ「母を愛していてほしかった」だけなんて、他者に対して愛への期待値が本当に低すぎる。そんなんだから、最後に「勇作だけが俺を愛してくれた」と勇作のあれを愛だと言い切ってしまえたんだろうね。これは尾形の望む者は何一つ与えられなかった証明だし、「愛した瞬間があったということでは?」と納得していたところから考えると、尾形はほんの一瞬でも愛してくれたという事実があれば一生それを大切にして生きていけるタイプなんだろうなと思う。あまりにも一途で多くを望まず。とにかくいばらの道すぎる。

 母の愛が報われる道を模索した果てに、尾形は母殺しへと到達する。これは尾形の一番最初の間違いだった。でもどうしたって殺した事実は取消しようがない。永遠に横たわり、いつまでもついて回る重たく揺らぎようがない事実だ。尾形はそれらを見たくなくて蓋をしていたが、彼はサイコパスぶってるだけの普通の感性を持つ人間である。だから罪悪感や迷いが出るし、243話上等兵たちの「お前ロシア兵を殺して悪かったって思わないよな?」にも表れていると思う。対して宇佐美は本当に罪悪感を感じない人間だ。宇佐美は真のサイコパスなため、罪悪感も迷いもない。尾形の問答に付き合った宇佐美は迷いなく「そのとーり」と肯定してしまえる。この肯定で、尾形は軌道修正の大きなチャンスを失ってしまったのかもしれない。間違いを正す機会を失った尾形は「欠けた人間」の証明をするしか道がなくなったのだ。そして人生を軌道修正できないから、尾形は俺をその人の代わりにして欲しい、自分を見て欲しい、愛してほしいと求めてはその度に「やっぱり俺ではダメなんだ」と確認行為を続けてしまう。これは自傷行為と何も変わらない。

 もし仮にだけど、トメさんを恨んで憎んでいたならよかったのかもしれない。月島みたいに憎くてしょうがないから殺したという方が、よっぽど筋が通っていたと思う。尾形と月島は通過儀礼として親殺しがあるけど、「愛しているけど殺した」と「憎んでいるから殺した」は全く別物だ。「憎んでいるから殺した」というほうが、精神の道理や理屈としては筋が通っていて健全な流れなのではないだろうか。親殺しは全く健全ではないんだけど。方法を間違えてしまったから一生間違え続けるしかなくなったなんて、どこまでも哀れで哀しい。

 初めは尾形にこんなに狂うとは思わなくて、最初は初めて死ぬタイプの推しができたからかなって思ってた。もうこれ死ぬわって感じたあたりから苦しくて吐きそうって言いながら漫画を読み進めたのも初めての体験だった。苦しかったけど、悲しいわけではないのにも驚いてる。あ、私は尾形の死を悲しまないんだって。むしろやっと救われたことが、祝福があったことがわかって清々しかった。今にして思うと、尾形への愛は尾形を形成する性格や不遇な環境、本人の問題など全てひっくるめての尾形だから愛しているのであって、もし生きて救われてしまったらそれはきっと私の愛した彼ではなくなってしまうかもしれないんだよね。それに尾形が生きて救われるなんて、尾形には無理な話だったことも理解している。本当に尾形を見てると色々考えてしまう

 尾形の「俺に銃を向けるな殺すぞ?」とか「頼めよ『助けてください尾形上等兵殿』と」っていうのは、今にして思えば、ちょっとイキるとかそういう感じなのかもしれないな。調子に乗っているというか。可愛い。バブ形オギャ之助すぎる。もはや幼すぎて可愛い。幼いというかちょっと赤ちゃんが過ぎる。なんだか騙されやすいし、幼いし、繊細故の生き辛さを感じていそうだな。尾形見てると、来世はみんなでチタタプしたりラッコ鍋を食べたり得意げそうに狩ったものを見せたりあんこう鍋を食べたりして、たくさん愛されてほしい。